エッセイ

長崎コンサート奮戦記

尾崎純子

2002.09

心が揺すぶられた「池田京子・平島誠也コンサート」

9月27日 (金) 長崎市のチトセピアホールで「今宵は歌曲とピアノの調べ・・・池田京子・平島誠也コンサート」を開催しました。
その日は夕方頃から雨が降り出し、その上市内で捕物があって、交通が大渋滞したにもかかわらず会場は続々とお客様が入って、ほぼ満席の400人以上となり、本当に熱気に満ちたコンサートでした。
3・4曲過ぎた頃におふたりのトークがはいり、一遍に会場は笑いと和やかさに包まれ、それからは京子さんの歌の表情も一段と豊かさを増して、クラシックがこんなに楽しいものかと皆が驚いたように思いました。休憩をはさんで日本歌曲、ピアノのノクターン、チャ?ルダッシュ、バイレロと続くと、まさに私が夢見たコンサートはこれと大きな声で言いたくなるほど、出演者と聴衆に一体感が生まれてドキドキするような興奮と楽しさがありました。

 3人のお嬢さんからの花束の後のアンコールでは、まず 池田さんが「感謝」という歌。平島さんが「長崎に対する私の気持ちや今日のコンサートのために働いて下さった人、来てくださった人への感謝の表現として好きなシューベルトの曲」と言って弾かれたピアノ。それから再び京子さんが「このコンサートの関係者や会場に足を運んで下さった人へ感謝を申し上げます」と挨拶され冴えわたる声でメリーウィドウを歌ってくださいました。いずれの曲も魂が入っている感じがして心が揺すぶられ、聴いている間中、私は目頭が熱くなってうるうるしてしまいました。

人の心と音楽のもつ不思議な響きあいに感動し、私の生涯にとっては、かけがえのないコンサートとなりました。
私の思い入れの分を差し引いても、この感動は私だけではなく、終わった後いろいろな方からご好評を頂きました。「久し振りに良い音楽会だった」「アットホームで楽しかった」「もう一度聴きたいと思った」「本格的な歌唱力だと思った」・・・
聴衆のレベルも高くて、長崎の音楽界をリードする人達や日頃音楽に親しんでいる人がたくさん来てくださったように思いました。それは、妙なところで拍手が一度も入らなかったのも証の一つと思います。

 

長崎でコンサートを開きたい

では、なぜ私がこのコンサートを企画したのか、そしてどのようにして進めたかもちょっと書きとめたいと思います。
「長崎に一緒に行ってくれるね」。東京で定年退官となった夫が、長崎大学転任の話を受けて、私にこう聞いたのが4年前。二つ返事で「いいわよ」と答えたものの、ここしばらく東京に落ち着き、生活も交友関係にも満足していましたから、中断して長崎に行く時は、ちょっと隠遁生活をするような気分でブルーでした。でも、これからの人生は「おまけ」みたいなものだからあまり欲張らず、暢気に過ごそうと心を切り替え長崎生活は始まりました。
住んでみると、長崎の風光や空気、食べ物が気に入ったこともありますが、私は以前より健康になり、新しい趣味にもめぐり合え、どんどん長崎が好きになりました。
はじめのうちは観光に明け暮れましたが(おかげで今やガイドとしてかなりエキスパート)、3年間が過ぎると、私の体の中にはエネルギーが充満してきて、隠遁生活では勿体無くなり、何かしたいという意欲がふつふつと湧いてきました。そんな時です。
昨年の12月22日、銀座クロイゾンホール「ファイナルガラコンサート」があり、丁度上京していたので夫婦で参加しました。
コンサートの後、池田さんが「今日のピアノの平島誠也さんは長崎出身よ」と言われ夫婦ではじめて平島さんとお話をしました。
平島さんの幼馴染が夫の同僚(福井先生)の奥さんということが分かった頃は「池田さん平島さんのお二人で長崎にきてください」と私はすでに口走っていました。そこから私のコンサート奮戦記が始まったのです。
このことには実はもう一つ伏線があって、私が長崎へ移住する直前にも池田さんのコンサートがあり、とてもステキだったので私は池田さんに「長崎にもコンサートで来て下さい」と言いました。池田さんは「良いわよ」と笑顔で応えられたのを、私は心密かに忘れずにいました。最近になって、この会話を池田さんも覚えていてくださった事を知り感激しました。
しかし、親戚はおろか友人・知人一人もいなかった長崎で私がコンサートを開催できるなんて、夢の夢と思いつつ3年は過ぎてしまったのですが、平島さんが長崎出身という縁に驚き、共通の友人がいることが分り、これはやれそう!と直感したのです。
前段が長くなってしまいましたが、チャンスというのは、こういう背景の中でやってきたというのが実感なのです。

 

キーパーソンを探そう

コンサートをしようと決心してから順調に進んだ一つには、夫の応援があったからで、まず私は福井先生と堀内先生(共に長崎大学音楽科教授)に会い、音楽ファンが周りに多いキーパーソンになる人を紹介して欲しいとお願いしました。この厄介な注文をお二人は快く引き受けてくださり、10人の音楽関係者をリストアップし紹介してくださいました。
同時に私の数少ない友人・知人を頼りに音楽関係ではないけれど、地域や社会につながりの深いキーパーソンを10人リストアップし、全部で20人の人に、私は自分で書いた趣旨書を持って、一人一人アポイントメントを取って訪問し、このコンサートへの協力を仰ぎました。
確か3週間かかりましたが、私にとってはほとんど初めて会う人ばかりで面白かったし、私の気持ちをどう伝えるか、どう協力の気持ちを持って貰うか一生懸命でエキサイティングな経験でした。
結果、お会いした人全員に賛同して貰い、推進メンバーになって頂くことができ、事務局も作り実行委員会を立ち上げスタートしました。これは余談になりますが、協力をしてくださった長崎国際テレビ取締役の里さんは、自分たちでさえも、実行委員会にこれだけの顔ぶれを揃えるのは難しいと誉めてくださるほど、長崎で大変活躍している素晴らしい人々ばかりで、私自身、それを後から知って驚いたほどです。

 

チケットの山に暗澹

私は、これまでに主催者自身になったことはありませんでしたが、コンサートの手伝いは何回もしてきましたし、案内文を書いたり、チラシを作ったりは職業としてしたこともありましたから、コンサートのノウハウはある程度知っていました。しかし、印刷されて手元にチケットが届いたときは、その山を前にして本当にチケットを売って、お客様で会場を満席にできるのかしらと不安と心配で想像以上に暗澹たる気持ちになりました。

昔からの諺に「馬を水際に連れて行くことが出来ても、水を飲ませることはできない」というのがありますが、いくら人や形式を整えても、「よしチケットを売ってあげよう、買ってあげよう」というふうに人の気持ち動かすことは、どれだけ難しいことか。私一人の力ではどうにもならないとしみじみ感じました。しかし、私の率直な気持ちを打ち明けると2人の人がアドバイスをしてくださり、厚かましいと思いながらも、第1回実行委員会を開きました。ここが突破口になって勢いをつけることができました。
広告や協賛は、いろいろな運に恵まれて予期せぬほどに集まりました。しかし、チケットはというと本当に気を揉むばかり。お金の心配より本当に会場に聴きに来てくれる人で一杯になるのだろうかという心配は、実は当日まで続きました。

 

事前の茶話会で盛り上がりと明るいきざし

9月17日に池田さん、平島さんに長崎に来て頂き、新聞社の取材を受けた後、協力をして下さっている人たちを招いて茶話会をしました。これさえも忙しい人たちを集めるのに苦労しましたが、それでも40人ばかり出席しました。平島さんには同窓生という援軍はあっても、長崎におけるお二人の知名度、特に池田さんにおいてはほとんどありません。この会で初めて二人のお人柄に触れ、1曲でしたが直接聴いたことは、その後の盛り上がりに大きな効果がありました。その上、とても和やかで愉快な会で、平島さんが「当日誰が聴きに来てくれるか分からなくても、この人たちのためにでも…」と言ってくださったことで、私はその後、気分的にとても楽になりました。池田さんは、スタートの時点から、どんなときも私の気持ちを察して優しい言葉をかけて下さったので、私のやる気のパワーになりました。このお二人だからこそ実現したコンサートだったと思います。
いずれにしても、私はこのコンサートを通して、この誌面では書ききれないほど面白い経験と、素敵な人たちとめぐり合えました。また数限りないエピソードと共に人間研究の場ともなりました。
地縁もなく、知人も少ない私が長崎の人たちの協力と支援を受けて開催できたのは、私に活力をくれた長崎への感謝と、人生のおまけと思って、欲張らずに無心にしたことが良かったのかなと思いますが、それ以上に夢を純粋に追いかけた私に、眼に見えない力が後押ししてくれたような気がしてとても敬虔な気持ちがいたします。
今はこんな機会を与えてくださったすべてにありがとうの気持ちで一杯です。

 

最後になりましたが長崎まで応援に駆けつけ手伝ってくださった響の会の安藤さん、川田さん、国友さん、山添さん。それから協賛して下さった増田さん、岩渕さん、趙さん、松本さん、西田さんらにも御礼を申し上げます。