ひとこと

響の会通信 vol.06 1999.5

「中央階段の想いで」

昨年、武蔵野音楽協会主催のコンサートに出演しました。会場は江古田の武蔵野音楽大学構内にあるベートーヴェンホール。実はわたしにとってこの音大には、入試にかかわる思いで深い事件があります。
当時入学試験は、第一日目にソルフェージュ、二日目は副科ピアノと、何日間にわたって審査が行われていました。面接試験を終えたある日、2階の学生ホールを出て、中央玄関に向かう大きな階段の一段目に足を踏みおろそうとしたその時、思いもかけず膝がガクッ....。あちは、ひざ、もも、おなか、胸、頭の順にくずれおちながら、まるでスローモーションのビデオを見るように、両手を広げたスーパーマン状態で一気に踊り場まですべり落ちてしまいました。びっくりしたスタッフの人たちに助け起こされ、それでもその時は恥ずかしさのあまり、痛みも感じぬまま宿泊先に逃げ帰ったように記憶しています。幸いけがはありませんでしたが、ただ、ろっ骨のところが筋状に、目にも鮮やかな青色に変化していました。
翌日の歌の試験では、ブレスのたびに痛みが走り、かくしてヴェルディの”Deh,pietoso,oh Addolorata”の”心に剣を突き刺されたような胸の痛みは...”は、物理的な胸の痛みをそのまま歌いあげて無事合格。まさしく、階段すべって、試験に合格といったところでしょうか。
その後、事件のことはすっかり忘れていましたが、縁あって若い歌い手の卵を育てることになり、想い出の階段と久しぶりに遭遇することとなりました。そして青春の痛い記憶が鮮明によみがえってくると共に、思わず慎重に第一歩を踏み出していました。もうあの時のようにスーパーマンをする自信もないし、今転んだらきっと、再起不能なほどのダメージを受けてしまいそうですから。